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スカイラインGTレースの歴史を振り返り!プリンス時代の裏話とは?

スカイラインGTレースの歴史を振り返り!プリンス時代の裏話とは? 現在は日産スカイライン当時はプリンススカイラインGTがレース起こした奇跡とその歴史を振り返り! 1964年に開催された第2回日本グランプリ。後に日産と合併するプリンス自動車の「スカイライン」が奇跡を起こすことになる この奇跡が「スカイライン伝説」の始まりとなる。 その奇跡と裏話を見ていこう。 スカイラインGT-Bはなぜ生まれたのか? この車が生まれた背景には、 前年に行われた第1回日本グランプリでのプリンス惨敗がある。 前年の1963年、鈴鹿サーキットで開催されたこのグランプリにおいて、プリンスの出場車はグロリアとスカイライン。 しかしトヨタ、いすゞ、日産に太刀打ちできず、グロリアでようやく9位という惨めな結果に終わった。 スタッフは奮起、レースに勝てる車で次のグランプリに挑むことになった。 桜井眞一郎氏「スカイラインの父」とは? 「スカイラインの父」として知られる桜井眞一郎氏の発案のもと 元々1,500cc直列4気筒を積む小型ファミリー向けセダンとして開発された2代目スカイラインを 無理矢理20cm延長。 エンジンは上級モデル「グロリア」から流用した直列6気筒1,988ccエンジンを押し込むという荒業で、 GTとして生まれた。 「切った貼った」したボディはバランスが悪かったが、 実際に「速いクルマ」を生み出すことに成功した。 砂子選手は鈴鹿で、日本車として初めて2分50秒を切る、2分47秒というタイムを記録。 第2回日本グランプリに向け規定生産台数の100台をギリギリでクリアした。 砂子義和氏が語る 「ボディをここ(Aピラー)からちぎって20cm伸ばしたような状態なわけ。 だからボディとしては物凄くバランスが悪かった。しかもタイヤが全然ダメだろ。 だから結局、もうドリフトする以外は仕方がない恰好になっちゃったわけさ。 でも要するに、タイヤが滑ってくれるから、ボディの剛性も、普通のままでよかったわけ」 スカイライン結果は・・・ スカイラインのレースの結果は・・・ 第2回日本グランプリレース開催が近づき、チーフ桜井真一郎率いるプリンスチームは 7台のスカイラインGTを揃え、グランプリに万全の体制で備えてた。 優勝はほぼ手中に納めたと、だれも感じていたほどでしたが、思わぬ誤算がプリンスチームを困惑させた。 レース直前にアマチュアレーサー式場壮吉がレーシングマシンポルシェ904によりレースに参戦して来たのです。 式場壮吉のポルシェ904は予選中にクラッシュ、応急修理でのスタートとなったポルシェはそれでも圧倒的な速さでレースをリードしましたが、 歴史的瞬間はレース中盤の7周目に訪れる。 周回遅れの車に躊躇したポルシェを、ずっと食い下がって来た生沢徹のスカイラインGTが捉え、 ぬき去り、わずか1周ではありますがトップを走ったのです。 その後、レースは1位は式場壮吉のポルシェ 2~6位をプリンススカイラインという結果になった。 スカイラインの健闘を当時の新聞は? 翌日のスポーツ新聞には「泣くなスカイライン、鈴鹿の華」 東京新聞では「羊の皮を被った狼」と表現をなされ「スカイライン神話」の始まるのです。